第104話
《全国のみなさんアクセスいつも本当にありがとうございます》
11月30日
先日、私に日記を勧(すす)めた先輩(せんぱい)から
「みなさんにちゃんとお礼を」
って言われました。以前、第71話で
「アクセス数なんて知りたくもない」
「何でも“それなりに”が好き」
なんて書いた時も叱(しか)られて。
今度もアクセス数までは教えてくれなかったけど
「サイトの順位を見ればわかるでしょ」
って。検索の時、キーワードを打って
そこに表示されるサイトの
上位にあるほどアクセス数が多いんだって。
とすると、キーワードが「明日香」「日記」だと
グーグル、ヤフーとも表示総数が6,310,000件
その中で「明日香の駅日記」の順位はというと
ムムムムッ……!!
じゃあ「日記」「駅」もしくは「駅」「日記」だと
191,000,000 ?? 一、十、百、千、万、十万
これどういうことになるの……!?
先輩に聞くと
6月の中頃からずっと先頭を走ってたって。
私、これまで「新十津川駅」っていう
キーワードから駅のホームページに入って
それから日記のコーナーを開いてから
気づきませんでした。
……もう震えがとまりません。
これ、私には大大事件です。
47都道府県のみなさん
ブラジル、アメリカ、オーストラリア
インド、中国、台湾のみなさん
本当にありがとうございました。
第103話
《「冬はやっぱり鍋(なべ)料理だよね」って……》
11月28日
これ、舌鼓(したつづみ)を打ちながら談笑(だんしょう)する
患者さんたちの言葉です。
病院では冬の間、何度か鍋料理の日があります。
一度に全部の患者さんはむりなので
病棟ごと、3日間に分けて行います。
種類は“寄せ鍋”など、魚を主体とした料理です。
東京に行っている弟や友達に聞くと
関東などでは鍋というと
「外で仲間(なかま)や同僚(どうりょう)たちと食べるもの」
というイメージがあるらしいのですが
北海道はどちらかというと家庭で
家族みんなで囲むものとして定着しています。
冬、雪に閉ざされ中々外へ出られない事から
そうなったのかも知れませんが
鍋料理は家庭の味、暖かい団欒(だんらん)の料理です。
だから栄養課の人たちは
「家族から一人離れ寂(さび)しいのでは」
「せめて自宅の気分を味わってもらいたい」
と始めたのだそうです。
「お酒も」
とまではできないけど
会場となっている集会所からは
今もみんなの笑い声が聞こえてきます。
第102話
《坂本龍馬と新十津川町の誕生 番外編》
11月25日
ここで奇遇(きぐう)なエピソードを。
十津川郷士は明治維新の推進役の
一手を担(にな)いましたが、彼らは恩賞(おんしょう)や自己の栄達(えいたつ)
を求めて活動したわけではありません。
それゆえ、明治維新が成立すると
他の志士達がそれを望んで中央に残る中
(第100話 みんな爵位(しゃくい)を得て栄達)
彼らは十津川村で元の生活に戻りました。
ただその後、新政府から功績をたたえられ
村に恩賞金が授けられたので、村は学校を建てました。
これが後の十津川高校です。
しかしその代わりにこの地にも税金が果たされ
それまで1300年以上にわたり「みんな平等」の精神
そして時の為政者(いせいしゃ)・豊臣(とよとみ)秀(ひで)吉(よし)や徳川(とくがわ)家康(いえやす)すらからも
無税で独立(どくりつ)独歩(どっぽ)、いわゆる共和制(きょうわせい)とも云(い)われた
その伝統(でんとう)に終止(しゅうし)符(ふ)がうたれたのです。
そこに起きたのがあの大水害でした。
そして北海道へ向かったのです。
その途中、月形の樺戸集治監(第97話)の
前を通ったのですが
実はその3年前まで、ここで杉村義衛という人が
典獄(てんごく)・月形(つきがた)潔(きよし)に呼ばれ剣術(けんじゅつ)指南役(しなんやく)をしていました。
その人の旧名は永倉新八(ながくらしんぱち)。
そうです、坂本龍馬にこよなく愛され
そして「仇(かたき)を」と奮戦中(ふんせんちゅう)に亡(な)くなった
あの十津川郷士・中井庄五郎(なかいしょうごろう)が
京都の四条大橋の上で沖田総司らと乱闘になった時の
新選組(しんせんぐみ)の一人、その永倉新八でした(第100話)。
かつて明治(めいじ)維新(いしん)を推進(すいしん)した同士(どうし)(薩摩(さつま)、長州(ちょうしゅう))が敵(てき)
(薩摩(さつま)は“西南(せいなん)戦争(せんそう)”で長州(ちょうしゅう)は”萩(はぎ)の乱(らん)”で囚人(しゅうじん)に)
になり、敵(新撰組)だった人が仲間になったり
人生って歴史ってふしぎですよね。
それにしても、こういった武士の反乱を
幕末の混乱期にすでに予想し(101話)
武士による北海道開拓を考えた坂本龍馬
その先見性にあらためて驚いた今回の調べでした。
第101話
《坂本龍馬と新十津川町誕生 その由来③》
11月23日
前2話にわたって書いたように
坂本龍馬や土佐郷士(ごうし)と十津川郷士の
お互いの交流は深いものでした。
龍馬は江戸で勝海舟(かつかいしゅう)との出会い以来
アメリカ合衆国の政治制度を研究し
幕府を倒した後の日本の形を
そして必要がなくなるであろう武士たちの未来像を
唯一考えていた志士とも言える人です。
龍馬は武士よる北海道開拓を考えました。
イギリスからアメリカ大陸に移住して
新しい近代国家をうちたてたアメリカの例を参考に
自らもそれを夢見ていたと云います。
現に同じ土佐郷士の北添佶摩(きたぞえきつま)など
3人の仲間を北海道視察に向けました。
この北添、その北海道行きの前年には
十津川にいました。そして
北海道から戻ってからの龍馬らとの会話の中に
十津川郷士の仲間たちもいたのです。
十津川大水害の後、そのわずか2ケ月後には
人口の3分の1にあたる2489名が
みんなして大挙(たいきょ)北海道をめざしたのは
まさにこれらの前提
龍馬の構想への共鳴があったからです。
後に西郷(さいごう)隆盛(たかもり)が発案した屯田兵(とんでんへい)構想(こうそう)も
すでに志士達の間に広まっていた坂本龍馬の私案
「武士による北海道開拓
そして彼らによるロシアからの北方(ほっぽう)防衛(ぼうえい)」
に基づいてのものと云われています。
十津川村大水害がきっかけになったとはいえ
新十津川町その誕生は
坂本龍馬の北海道への夢
それに触発(しょくはつ)された十津川郷士たちが
その夢を実現したものです。
彼らは家財道具も失い、着のみ着のままの
悲惨(ひさん)な姿の中でも、刀だけは手に
そして十津川郷士の気概(きがい)の旗(はた)を先頭(せんとう)に掲(かか)げ
大挙して北海道の荒野へと向かったのです。
第100話
《坂本龍馬と新十津川町誕生 の由来②》
11月21日
坂本龍馬と中岡慎太郎はなぜ
十津川郷士(ごうし)とうそを名乗った刺客(しかく)を
中に入れてしまったのか? それは事前に
「十津川郷士なら通して良い」
と言ってあったからです。
幕末において坂本龍馬ら土佐郷士と
十津川郷士の関係は深いものがありました。
維新近くなる頃はいつもよくいっしょだったと。
お互い勤皇党(きんのうとう)の郷士(ごうし)として
「人は天皇の下に平等」という考えで
意気投合したのかも知れません。
十津川郷士の千葉定之介にすすめられ
土佐の剛勇・那須盛馬(後の片岡源馬・男爵)が
田中光顕(後に宮内大臣・子爵)とともに
新選組(しんせんぐみ)や幕吏(ばくり)の追跡(ついせき)から十津川に逃(のが)れ
そこで剣術指導の時に見出した若者が
まだその時19歳の中井庄五郎(なかいしょうごろう)です。
中井は田宮流居合(いあい)抜(ぬ)きの達人ですが
泥酔(でいすい)した彼ら二人が京都の四条大橋で
近藤(こんどう)勇(いさみ)の新選組、それも鬼(おに)の三強と呼ばれた
沖田(おきた)総司(そうじ)、永倉新八(ながくらしんぱち)、斉藤(さいとう)一(はじめ)らと遭遇(そうぐう)、大乱闘(らんとう)に。
さすがに相手が悪く、中井は
手負(てお)いの那須をせおって逃げたと云(い)います。
この中井、坂本龍馬にこよなく愛されました。
龍馬は手紙をそえ、彼に大刀を贈(おく)っています。
中井も、その時すでに英雄であった龍馬が
新参(しんざん)で年下の自分と同等(どうとう)に接してくれることに心酔(しんすい)し
「この人のためなら死んでも良い」
と思ったのだそうです。
実際、坂本龍馬が暗殺されたことを知った彼は
当時その黒幕(くろまく)と噂(うわさ)された人物に仇(かたき)を討(う)とうと
龍馬の一番弟子(でし)・陸奥宗光(むつむねみつ)(後に外務大臣・伯爵)らと
先頭にたって急襲(きゅうしゅう)しますが、相手に一(ひと)太刀(たち)あびせた時
護衛(ごえい)に来ていた土方(ひじかた)歳(とし)三(ぞう)率いる新選組の
斉藤一に横から切られて亡くなりました。
斉藤は四条大橋の乱闘以来、中井を狙っていたのだと。
中井庄五郎、その時21歳。
いま彼は、京都の龍馬の墓近くで眠っています。
次回、また続きを書きます。
第99話
《坂本龍馬と新十津川町誕生 の由来》
11月18日
この日記を書き始めてから
みんなから色々な資料をいただいたり
自分で確かめたり
町の歴史や周辺地域のことを
ほんと良く知るようになりました。
そんな中で第100話?を記念して
今日は海援隊(かいえんたい)創始者(そうししゃ)、坂本(さかもと)龍(りょう)馬(ま)(竜馬)と
新十津川町誕生の関係です。
第79話でも書いたけど、おとなり浦臼町と
龍馬の家族の関係は
この辺りでは良く知られています。
しかし新十津川町との関係となると
語られることはありません。
しかし、しかしです。
町の誕生は龍馬と深く関係あるのです。
明治22年の十津川村大水害の後
村の人口の3分の1にあたる2489名が
なぜ大挙して北海道の原野をめざしたのか?
しかも水害の発生からわずか2ケ月後の事。
そんなに大勢、そんなに早く、なぜ? それもなぜ北海道でなくてはいけなかったのか?
これは生前の龍馬と十津川郷士(ごうし)の深い関係から
みんな自然と北海道へ向かったのです。
この理由を書く前に龍馬暗殺の事を記します。
明治(めいじ)維新(いしん)の直前に刺客(しかく)に襲(おそ)われた坂本龍馬。
ねらわれていることを知っていた龍馬が
訪ねてきた彼らをなぜ中に入れてしまったのか
なぜ油断してしまったのか?
これはいっしょに襲(おそ)われた陸援隊(りくえんたい)の隊長
龍馬と同じ土佐(とさ)郷士(ごうし)の中岡(なかおか)慎太郎(しんたろう)が
語った話として残っていますが
刺客らは“十津川郷士”と名乗ったと。
つまり、だから龍馬らは
安心して招きいれたのです。
この話の続き、いま家では父や祖父
そして母まで入って盛り上がっています。
東京の弟にまで電話して大興奮!
もちろん地元酒金滴で“ぐい飲み”。
ただ長くなるので
続きは次回に記したいと思います。
第98話
《新十津川駅から滝川駅まで 料金は?》
11月16日
今日はタクシー料金について。
新十津川駅と滝川駅間をタクシー利用する旅人は
「料金は?」
「右回りと左回りとどっちが得なの?」
と、当然思われるでしょう。
答えは、右回りでも左回りでも同じで
1330円もしくは1490円。
「えっ、何なのこの160円の差?
駅に着く直前にメーターがあがるの?」
なんて、よけい疑問が。この理由は
夏料金(4月~11月)と冬料金(12月~3月)
北海道独特のシステムかもしれないけど
たぶん冬は道路が凍っていて危険なため
スピードも出せないし燃費もかかって……?
ではないかと想像。
給与でも冬は冬給与というか
別途“燃料手当”というのが支給されます。
時には零下20℃近い冷凍庫
冷蔵庫は冷やす目的ではなく
食料品などが凍らないようにするため。
つまり外の気温より冷蔵庫の中の方が
まだあったかいってこと。
それほどしばれる~ってこと。
だから寝ている間も暖房をつけています。
そのためと言っては何だけど、
部屋の中は薄着でも快適
寒さを感じることはほとんどありません。
屋外だって慣れるとそれほどでもないんだよ。
窓からの雪景色がまたステキなんだからネ。 注、冬は、1600円のときもあります。
第97話
《日本一長い直線道路だよ》
11月14日
お隣、滝川市と砂川市の境界を
石狩川に流れ込む空知川。
そこにかかる国道12号線の新空知大橋を
滝川側に下った国道38線との交差点を
起点として札幌市方面、美唄市まで。
ここが日本一長い直線道路29.2キロです。
その坂下の交差点から逆に旭川方面
写真のごとく20度弱右に折れるのだけど
その後もまだまだ直線は続いています。
この道路、誰が造ったかご存知でしょうか?
実は樺戸(かばと)集治監(しゅうじかん)(後の監獄(かんごく))の囚人(しゅうじん)の人たちで
明治19年(1886年)のことだそうです。
月形町の名前はその初代典獄(てんごく)
(警察署長と監獄の所長を兼ねたような立場)
人格者であった月形(つきがた)潔(きよし)にちなんでのものだとか。
ここの囚人には映画にもなった
脱獄(だつごく)王(おう)「五寸(ごすん)くぎの寅(とら)吉(きち)」がいて
当時でも話題になったらしいんだけど
私が考え深かったのは国事犯が多かったという事。
彼らは明治(めいじ)維新(いしん)の推進者(すいしんしゃ)であったのに
「西南戦争」や「萩の乱」など
その後の政府指針に反対して蜂起(ほうき)したためです。
元は維新の仲間が看守側と囚人側に、そして
明治政府は彼らを開発労働者として北海道送りに。
足にクサリの労働はとてもきつかったと思うけど
彼らも武士、
「ロシアの脅威(きょうい)から日本を家族を守るんだ」
と、一所懸命がんばってくれたのだと。
明治22年の十津川村大水害で
北海道の原野、今の新十津川に向かった人たちが
この集治監の前を通った時
見るに見かねた囚人の人たちが
子供をおぶってくれたとも知りました。
今日はちょっとしんみりした話になったけど
遠く故郷を離れ一人亡くなっていった人たちに
感謝と哀悼(あいとう)を。
第96話
《冬ごしらえ》
11月11日
北海道は全道もう冬ごしらえの季節。
今年は暖かい日が続いているけど、
来週にはいよいよ本格的な冬の到来とか。
天気予報では月曜日から雪マークです。
私も冬物を引っ張り出しては
あれこれ準備中。
これ、あとの片づけが大変で……
それと、駅周りの整備や球根植えも
「それまでに終わらしておかなくては」
って大急ぎです。でも
みんな手馴れてきてか今日で終わりそう。
ただ保全のひとたちはまだまだ大変。
本州の雪の多い地方もそうだろうけど、
ここ空知地方では樹木に
雪囲いをしなくてはならないからです。
でないと、雪の重さ、吹雪の風で
幹が折れて枯れてしまうの。
そんな風雪に耐えた樹木、植物だけが
新緑の芽ばえや花盛りを謳歌(おうか)できます。
だからこそ、その喜びをみんな
体いっぱいに表現して
私達を感動させてくれるのだと。
ほんと、北海道の春はすばらしいんだから。
でも、真っ白い雪の原野を走る列車の旅も、
それはそれで魅力的なんだからね。
第95話
《夢があって、元気のわく駅名って?》
11月9日
今日の提案は”駅名”。
北海道の地名にはアイヌの人達が呼んでいたものに
そのまま日本語の字をあてたものが多くあります。
その一例が札沼線の駅名。
当初新十津川エリアに存在した駅には
アイヌ語のトック(隆起物)とプト(川の入口)が
日本語的になまった「トップ」がついていました。
新十津川駅だって最初は「中トップ駅」。
当時「上トップ駅」「上北トップ駅」「下トップ駅」
「南下トップ駅」まであってややこしくて。
ここ中空知は石狩川、そしてその支流が多く
一帯は鮭が良くとれていたのではと思われます。
そういった歴史を思い起こす名前「トップ」
何かゴロ的に縁起(えんぎ)が良さそうだし(題11話)
余計な修飾語を取ってそのままがいいのにね。
だからまず「下トップ」を「花月(かげつ)駅」に
「南下トップ」を「トップ駅」に変更すればどうかな。
どうしてかっていうと
「下トップ駅」エリアは現在「花月」という地名で
誰もがそう呼んでいます。
名前の感じも良いし、石狩川による
三日月湖の歴史もわかりやすいのではと。
そこで残った「南下トップ駅」を
「トップ駅」に!!
この駅の写真を見て、
周りは田んぼばかりで無人、そんな中で
駅のホームがそのまま道路に直結
列車をおりたら即道路・ゴールだよ~
つまり周りに寄せ付ける者なくダントツ
“一番でゴール!!”
駅名を変えるってとても大変な事らいんだけど
旅も何か楽しくなりそうだし
元気がわく話だと思うんだけどな……
第94話
《レンタル自転車があればな……って》
11月7日
そう思いません?
新十津川駅と滝川駅の間
バスは1時間以上かんかくが開いているし
タクシーは駅前で待っていないし
暑い日の50分、歩くのけっこうきついし
町も少しまわってみたいとは思ったけど
「ちょっとね……」
なんてね。だからレンタサイクルがあれば
それが少しは解消するんじゃ?
って思うの。それも
「新十津川駅で借りて滝川駅で返すのもOK」
っていうシステムのがね。
滝川市の方はすでに観光協会が
駅前で電動自転車を貸していて
新十津川駅まで花を観にきた人もいたみたい。
だとすれば、後は新十津川町もがんばってと……
そしてどうせやるならもう一つプラスして
おとなりの町・浦臼(うらうす)駅にもあると良いのに。
新十津川駅は1日3便
午後0時37分着・同57分発から
夕方6時56分着・7時22分発まで
約6時間半もの間列車がありません。
これでは旅の人も不便だよね。
でもなの、浦臼駅には1日7便あるんだよ。
だから新十津川と浦臼の間を
レンタサイクルで移動できたら
もっと自由に旅行プランが組めると思うの。
それにこれ、ただ便利というだけでなくて、
また新しい楽しみ方もできるんだから。
春はサクラやコブシに萌黄(もえぎ)の新緑(第19・20話)、
夏はヨーロッパ風の高原を
秋は全山どこも素晴らしい紅葉(第78・85話)
涼やかな風を切りながら
自転車をのんびり走らせるのって最高だよ。
周辺の景色はどこをどう切り取っても
とてもステキなんだからね。
お弁当だっておいしいでしょ?
第93話
《新十津川駅から滝川駅まで
どうやって行けば?》
11月5日
これ、いまだ混乱があるみたい。
この間の距離、約4キロメートルで
手段は今のところ、歩き、バス、タクシー
の3種類。
これもし歩いたとしても右回り(第12話)左回り(第11話)、
ともに速足なら50分もあれば。
タクシーの場合は信号待ちが頻繁(ひんぱん)でなければ
せいぜい5分ほど。ただそのタクシー
「あれっ? 駅前にいない!?」
なんて困っていた人もいたけど、
わかりにくくて戸惑うのはやっぱりバス。
新十津川駅からバス停に向かった人も、
役場前とピンネ生協店前を行ったり来たりで
どっちが良いのか迷われていたと聞きました。
それにしても何であんな近くで2ケ所も
バス停があるんだろうね。
町民でさえバスに慣れていない人は
迷っちゃうんだから。
バス時刻表について、今後は
「“十津川刑事”なみに分析して書いておこう」
なんて意見もあったけど、
ただ説明文を入れすぎて、
よけい分かりにくくなってもいけないから、
時刻表の最初に注意事項だけ
記しておいてもらうからね。
第92話
《人には人それぞれ重き歴史あり……》
11月3日
病院の“明日も楽しみに委員会”では、
「朝起きてから眠りにつくまで、
患者さんの日常生活全てがリハビリ」
の考えで、各セクションが
日々色々趣向(しゅこう)を凝(こ)らした催(もよお)しをやっています。
“文化の日”にちなんで第7病棟(びょうとう)では
ナースセンター前でお茶会(ちゃかい)のご接待を。
その時患者さんの手作り作品を飾ったのですが
その一つ一つにとても感動を覚え
みんなちょっと涙ぐんでしまって……
右写真①もその一例で、
先月70歳で退職されたEさんが
「最後のお世話」と、
寝る時間も惜しんで作った
新聞の“ちぎり絵”入りハガキに
患者さんの思い思いの気持ちを書いたものです。
写真③は裁縫(さいほう)が得意(とくい)な患者さんが、
自分の手が不自由なため、2人のスタッフが
教えをこいながら作った合作の一つです。
そのためか作品に何か暖かさを感じます。
写真④はAさんが第二次世界大戦の
軍隊生活で身に着けた唯一(ゆいいつ)の裁縫(さいほう)、水筒(すいとう)袋(ふくろ)縫(ぬ)い。
別の人のハガキにも、
召集(しょうしゅう)令状(れいじょう)やシベリア抑留(よくりゅう)の記述がありますが、
今も鮮明に夢に出てくるのだそうです。
人には人それぞれ重き歴史があり、その尊厳(そんげん)が。
だからこそ私たちは一所懸命(いっしょけんめい)お世話して
早く元気になってもらいたい。
スタッフは今年高校を卒業したばかりの18歳から
上は00歳?まで、
作品を観ながらまたみんなで誓(ちか)い合いました。